【連載】歴史の陰に咲いた言葉たち 第2話
分け入っても分け入っても青い山
── 種田山頭火(たねだ さんとうか)
この人を知っていますか?
種田山頭火(1882〜1940年)。山口県生まれの自由律俳句の俳人。五・七・五という定型を捨て、魂の叫びをそのまま言葉にした男だ。今も多くの人に愛される種田山頭火の名言を、今回はご紹介したい。
彼の人生の根底にあったのは、11歳のときに体験した母の投身自殺だった。その傷は生涯癒えることなく、山頭火はその後、酒と放浪の中に身を沈めていく。
父とともに酒造業を営んでいたこともあったが経営に失敗。熊本で泥酔して路面電車を止めるなどの騒動を起こし、社会の端へと追いやられていった。
しかし43歳のとき、山頭火は出家した。そして翌年、「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出づ」と書き残し、西日本を中心にほぼ全国を行脚して句作を続けた。
托鉢しながら歩き、飲み、また歩く。そんな生涯だった。
言葉の背景
冒頭の句は、山頭火が漂泊の旅に出た直後に詠んだとされる。
分け入っても分け入っても青い山
どこまで歩いても、山が続く。目的地はない。出口もない。それでも足は動く。立ち止まることの方が、もっと苦しいから。
この句には悲壮感がない。絶望もない。ただ、歩くことそのものへの、静かな肯定がある。進んでも進んでも変わらない景色の中に、山頭火は何かを見ていた。それは諦めではなく、「今ここを歩いている」という事実だけを、言葉にしたものだった。
山頭火自身は日記にこう記している。
「私は酒席において最も強く自己の矛盾を意識する。酔いたいと思う私と酔うまいとする私とが、火と水とが叫ぶように、また神と悪魔とが戦うように、私の腹のどん底で噛み合っている」
これほど正直に自分の矛盾を書き記した人物が、近代日本にどれほどいただろうか。山頭火は聖人でも賢者でもなかった。酒をやめられず、定住できず、人に迷惑をかけ続けた。それでも句を詠み続けた。
「昭和の芭蕉」と呼ばれるほど旅の多い人生を送った山頭火だが、松尾芭蕉とは決定的に異なる点がある。芭蕉の旅には文人としての矜持があった。山頭火の旅には、帰る場所がなかった。それが、彼の言葉を今も生々しく感じさせる理由だ。
1940年、山頭火は愛媛・松山の一草庵で58歳の生涯を閉じた。枕元には酒瓶があったという。
次回・第3話「負けることを知っていた男」
── 時代に消えた武将の、最後の言葉 ──
📖 連載バックナンバー
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